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福島地方裁判所 昭和47年(行ウ)1号 判決

原告 甲野一郎

右訴訟代理人弁護士 小泉征一郎

同 梅野泰二

同 角南俊輔

同 石川博光

同 葉山水樹

同 古瀬駿介

同 川端和治

同 森本宏一郎

被告 福島県立磐城高等学校長 豊田要三

右訴訟代理人弁護士 今井吉之

右指定代理人 紺野勇

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

一  原告が昭和四四年四月磐城高校に入学し、昭和四六年一二月七日当時第三学年に在学しており、被告が磐城高校校長であること、被告が原告に対し昭和四六年一一月一一日付で第二次処分を、同年一二月七日付で第四次処分をなしたことは、当事者間に争いがない。

二  第一次処分について

1  第一次処分に至る経過

≪証拠省略≫を総合すると、つぎの事実を認めることができ(る。)≪証拠判断省略≫

(一)  昭和四六年二月一一日、原告は、前日学校から無許可の集会であるから参加しないように注意されたのにかかわらず、二・一一紀元節粉砕合同同盟登校に参加して他校生徒を含む十数名の者とともに磐城高校校地内に入り、教師らの退去するようにとの指示を無視して約三〇分にわたりアジ演説、デモを行なった。そして同月一八日被告から無期家庭謹慎処分を受けたが、同月二〇日今後このような行為に出ないよう注意する旨の誓約書を提出し、同年三月八日右処分が解かれたが、この間四回にわたって組担任の大平教諭らが家庭訪問して原告の指導にあたった。

(二)  原告は、成田空港問題に強い関心をもっていたが、五月の連休を利用して三里塚に赴き空港収用反対の農民と起居を共にし、学校生活では得られなかった深い感銘を得て帰った。

(三)  原告は昭和四六年八月三〇、三一日と無断欠席し、同年九月二日大平教諭から欠席の理由を尋ねられてもはっきりと答えなかった。そしてさらに同月六日、八日および一〇日無断欠席し、そのころ、同教諭からその授業の合間に理由を尋ねられても明確に答えず、また同月二日、九日、一三日、一四日と無断欠課した。右欠席は、学期開始日を誤解したり、外部の集会に参加し、あるいは集会の準備のためであり、原告の父母も当時そのことを知らなかった。

(四)  同月一四日、翌一五日から始まる三里塚の第二次強制収用反対運動に原告が参加するおそれがあったので、大平教諭は原告に参加しないよう注意するつもりでいたところ、原告は前記のように欠課したためその機会がなく、同日午後六時ころ原告の自宅に電話し、原告の母甲野ハル子に危険が予測されるので参加しないよう原告に注意してほしい旨要請した。同人はこれに対して、依頼の旨は承知したが原告が一一日から帰宅しないので帰ってくるかどうかわからないと答えた。原告の父甲野太郎および母は午後七時ころ帰宅した原告に三里塚に行かないよう説得したが、原告の意志が極めて強固だったので、やむをえず承認し、母が小遣を与えた。翌一五日午前七時三〇分ころ、大平教諭から電話があったので、原告の母は、いつも心配をかけて申訳ないが原告は一週間休むといって出かけてしまったのでよろしくお願いする旨答えた。原告は三里塚に行き、同月二一日まで欠席した。

磐城高校においては生徒が欠席する場合、事前または事後に生徒手帳の生徒連絡簿に欠席理由を記入して担任教師の認印をえることとされているが、一般には、電話等により父兄から連絡をすれば、連絡簿による届出をしない場合でも必ずしも無届扱いとはされていない。

(五)  原告が同月二二日三校時から授業に出席したので、放課後大平教諭および学年主任渡辺好暉教諭は、原告に対し欠席期間中の行動について事情聴取をしたが、原告は、風邪をひいてよそで寝ていたが、どこで寝ていたかはいえない旨答えた。

(六)  そのころ、新聞では磐城高校生を含む高校生が三里塚闘争に参加加し、これについて、たまたま開かれていた福島県高等学校校長会において論議され、県教育委員会がその処分を厳正に行なうよう指示したかのような記事が掲載されたため、原告らは三里塚闘争参加を理由として厳しい処分を課せられるのではないか、これは高校生の政治活動に対する弾圧であると考え、このことを生徒一般に知らせ、処分を阻止しようとはかり、同月二九日昼休みである午前一一時四〇分ころ、原告は数名の生徒(磐城高校生R行動委員会と称した)とともに、ハンドマイクで三里塚闘争に参加した者に対する処分反対、職員会議の公開要求のための学内集会を開こうと呼びかけ、これに応じて約一〇〇名の生徒が集り原告らが主催して午後三時二〇分ごろまで集会を継続し、その間授業時間中もマイクを使用したことがあり、少くとも中庭に面する教室においては授業の妨害となった。翌三〇日学校では第一校時にホームルームを行ない、担任教師から前日の集会の状況の説明、集会のもち方の指導をしたが、三学年のクラスではその後および翌日もホームルームを継続し、三年三組では「処分反対、職員会議の内容の公開を要求し、これがいれられないときは何らかの行動に出る」旨の決議をし、三年四組、八組のほぼ同様のクラス決議書とともに、右決議書を被告に手交した。

(七)  一方、学校側は一〇月一日職員会議を開いて原告らの処分について審議したが、原告らの反対行動にかんがみ、原告らが処分に服せず登校する可能性が強く、そのため再度の処分をしなければならない事態の生ずることも予想されたので、その場合の取扱いも論議され、原告については、前示の家庭謹慎処分があること、八月三〇日以降九月一〇日まで五日間の無断欠席および四回の無断欠課があることを考慮し、処分後登校した場合には欠席として取り扱い、謹慎処分に服した日には加えないこととする実質一〇日間の家庭謹慎処分に処することに決定し、同日午後九時一〇分ころ、新妻教頭らが原告宅を訪問し、原告の母に明二日午前九時に原告とともに保護者が出頭するよう伝えた。

(八)  一〇月二日大平教諭が登校した原告に数回校長室に来るよう伝えたが、これに応じないので、原告の父だけが校長室に入り、同人に対して被告から口頭で、八月三〇日から九月二一日までの間のうち一〇日間正当な理由なく無断欠席したことについて、一〇月二日から実質一〇日間の家庭謹慎に処する旨告知したが、その際前示のような実質一〇日の具体的内容については説明をしなかった。右告知が終った直後、校庭で原告の父から原告に対し、右処分の内容が伝えられた。

2  原告は第一次処分は無効であると主張するので、その主張する無効原因について順次検討する。

(一)(1)  公立高等学校における生徒に対する懲戒権が学校教育法第一一条、施行規則第一三条にもとづくものであることは原告の主張するとおりであり、施行規則第一三条第二項には、校長の行なう懲戒処分として、退学、停学および訓告の三種の処分が掲げられている。そして、原告は、訓告以上の懲戒処分についてはこの三種に限定され、これら以外の処分を課することはできないと主張する。

学校教育における懲戒は、教育活動の一環としてなされるものであるから、教育活動が生徒の性格、能力等の個別的資質、環境等に応じて、個別的な内容および方法によってなされることが望ましいように、懲戒も、懲戒の対象となる当該生徒の具体的行為、動機、個別的資質等諸般の事情を考慮して、個別的な内容および方法によることが望ましい。他面、懲戒処分が生徒に対する権利侵害をも含むことがあるので、他との衡平性および画一性が要求され、また他の生徒に与える影響を考慮する必要がある。この相反する二種の要求を満足するためには、施行規則に定められた懲戒の種類に限定されるものではないが、これらと性質および態様を実質的に異にする処分は許されないと解するのが相当である。

ところで、≪証拠省略≫によれば、謹慎処分とは登校して授業その他の学校施設を享受ないし利用することを禁止するものであることが認められ、その実質的内容は停学と異ならないから、被告が謹慎処分を課することは違法ではない。

(2) 学則第二九条第一項には懲戒処分として、退学、停学および謹慎を定めている。原告は、これを施行規則第一三条第二項と対比すると、謹慎は訓告を意味するものであって謹慎の名において停学と同一内容の処分をすることは許されないと主張するが、懲戒処分が施行規則に定められた処分に限定されるものでなく、謹慎が停学と実質的内容を同じくすることは前説示のとおりであり、学則が訓告を脱漏したそしりは免れないが、形式的に挙示された処分を対比し、学則における謹慎が訓告を定めたものであると解さなければならないとする合理的根拠はない。

(3)(ア) 原告は謹慎中には自宅謹慎と学校謹慎とがあり、その不利益の程度に大きな差があるのであって、内規に定める謹慎にこの二種の処分を含ませることは許されないと主張する。その主張の内容は必ずしも明らかではないが、≪証拠省略≫によれば、自宅謹慎と学校謹慎とは登校のみを禁止するか否かにかかることが認められ、謹慎の実質的内容である授業その他の学校施設の享受ないし利用を拒否する点において変りはないのであるから(学校謹慎においては、校内の一室に被処分者を在室させることになるが、これは学校謹慎に当然に伴う事象であって、これをもって通常の場合における生徒の学校施設の利用と同一であるといえないことは明らかである)、処分された生徒の不利益において大きな差はないのみならず、原告の主張が謹慎の内容が不明確であるからこのような処分を課することができないというのであれば、従前の慣行的になされてきた処分の実施の内容、謹慎ということばの語義自体から、通常人が理解不可能な程不明確なものとはいえない。

(イ) また、原告は、内規には謹慎と停学とが定められ、記載の態様から謹慎がより軽い処分であると解せられるのに実質的に同一な二つの処分を掲げることは不合理であるから、謹慎を訓告と解すべきであると主張する。しかしながら、≪証拠省略≫によれば、停学の場合には、指導要録に処分のなされたことを記入し、かつ県教育委員会に報告することになっているのに、謹慎の場合にはこれをしないし、その語感において軽い処分であると理解されること、慣行的な実施態様をみると、より軽い非行に対して謹慎処分が課せられていること、処分として列挙されている謹慎がむしろ訓告と同一の内容をもつ処分と解せられ、謹慎を訓告と解すると訓告について同一内容の二種の処分が併記されることになることが認められるのであって、内規において停学と並んで謹慎処分を定めている意味を優に承認することができる。

(ウ) さらに謹慎は被処分者の主観的側面に介入する点停学より重い処分であるとの原告の主張について考えてみると、≪証拠省略≫によれば、被告ら学校側は、謹慎処分においては被処分者において反省の実があがったと認められない以上、謹慎処分に服したといえないとするものではなく、禁止事項である登校を行なったという外形上の事実が明らかである以上謹慎に服したといえないと取り扱ったことが認められるのであり、停学処分においても、被処分者が同様の行為に出れば処分に服したものといえないことは明らかである。また謹慎処分にしても停学処分にしても、物理的には授業等の享受の禁止を内容とするものであるが、これを機会として被処分者が自己の非行を反省するという効果を期待することは教育活動たる懲戒処分として当然であって、停学処分も全く物理的な禁止処分に終始するものとはいえない。

(二)  原告は、第一次処分の処分事由に八月三〇日から九月一〇日までの欠席が含まれているかどうか不明確であると主張するが、それが含まれ、かつ処分事由として告知されていることは前認定のとおりである。

(三)  原告は第一次処分事由である「正当な理由のない無断欠席」は処分根拠規定である内規に規定がないと主張するが、≪証拠省略≫によれば、内規第四項には「正当な理由のない欠席」が掲げられていることが認められるのであり、さらに処分事由として無断が付加された場合には、非行の情状としく重くはなっても軽くはないのであるから、内規に該当しないといえないことは明らかである。

(四)(1)  原告は第一次処分の処分理由とされた欠席は無断ではないと主張する。前認定の事実によれば、九月一六日以降の欠席は必ずしも無断とはいえないのであって、その限りでは右処分には事実誤認があるといえる。しかしながら、前示のように情状としてはともかく内規の処分事由に「無断」欠席はなく、つぎに述べるように処分事由としては欠席について正当な理由があるか否かが重要なのであって、右の程度の事実の誤認をもって、右処分を無効とすることはできない。

(2) 原告は、原告の所為が被告において処分根拠条項とする内規第四項に該当しないと主張する。≪証拠省略≫によれば、内規第四項には「正当な理由なく欠席又は欠課し、映画館飲食店等に出入したり、又は放浪した者はその程度により退学まで」と定められていることが認められ、前認定の事実によれば、本件欠席中の原告の行為を当然に放浪ということはできない。しかしながら、右に定められた要件のうち処分発動上重要な意味をもつのは、正当な理由のない欠席にあるのであり、その余の要件は例示にすぎないと解せられる。というのは、欠席してなされる所為であって、教育活動上懲戒に値するとみられるものは挙示されたものに限らないことは容易に考えられるのであり、しかもその処分は最も重い退学にまで及ぶのであるから、欠席中における行為が情状としての意味をもつものであることは明らかであるからである。

また、欠席の学校生活における消極的価値について考えてみると、学校とは、教育の目的を達成するため、時間と場所とを定め、一定の計画に従って、多数人に対し継続的に教育活動をするある程度組織化された社会的施設であって、授業は一定の計画のもとになされる学校教育の実現の最も重要な場の一つであり、直接教師の指導を受け、かつ同級生との交流のもとに、知識技能の修得と人格の養成をはかることを目的とするものであるから、生徒が自ら求めてこのような教育施設に包括的に自己の教育を委託し、生徒の身分を取得した以上、学校として生徒の欠席を単に当該生徒の授業を受ける権利の放棄として見すごすことはできないのであり、その意味で生徒も出席を義務づけられるといわなければならない。したがって、欠席を正当化する理由とは、このような身分にある生徒の立場から考えられるべきものであり、原告の九月一六日以降欠席が三里塚闘争に参加したためであったことは前示のとおりであるが、思想、信条の自由を保障し、相異なる立場の存在を承認し合うことを原則とする現行憲法の下においては、ある一つの立場のみを絶対的に是とすることはできないのであるから、原告の右欠席の理由をもっては、いまだ正当な理由があるとはいいえない。また、八月三〇日から九月一〇日までの欠席理由は前認定のとおりであり、正当な理由あるものとは認め難く、かつ、第一次処分時に原告は欠席の理由を明らかにしなかったのであるが、欠席理由を明らかにすることは原告にとって容易なことであるから、これを明らかにしない以上、正当な理由がないと推認されてもやむをえないというべきである。

(五)  原告は本件処分を思想弾圧であると主張する。しかしながら原告が処分された理由は、正当な理由のない欠席なのであるから、原告が三里塚闘争に参加したことが欠席という所為の中に含まれているとしても、それをもって、欠席を正当化するものと認められない以上、結果だけをとらえて自己の思想に対する弾圧とすることはあたらない。

(六)  原告は当時他にも欠席者がいたのに原告のみが処分を受けたと主張するけれども、前示の処分事由および原告の従前の情状と同程度の欠席者があったと認めるに足りる証拠はないから、原告に対する第一次処分をもって差別的取扱いとすることはできない。

(七)(1)  原告は第一次処分をもって被告の反対派である原告に対する弾圧であると主張するが、そのあたらないことは前示(四)ないし(六)のとおりである。

(2) 原告は第一次処分の違法な理由として、虚偽の理由を告知したこと、原告に弁明の機会を与えなかったこと、処分を原告に告知していないことおよび原告に対し指導説得をしていないことをあげるが、前認定の事実のもとにおいては、原告の主張するような手続上のかしはないというべきである。

なお、原告は確定期間のある謹慎処分を被告がほしいままに延長するような取扱いをした旨主張するが、第一次処分が実質一〇日の謹慎処分であったこと、それは原告が処分に服さない蓋然性が高く、したがって再度の処分をせざるをえないことが予想されたので、これを避けるためにとられた処置であることは前認定のとおりであり、その前提において原告の主張が相当でないのみならず、実質一〇日の謹慎処分が暦日上一〇日で終了するかどうかは原告の意思にかかり、被告が恣意的に延長できるものではないこと、再度の処分を行なうよりも一個の処分ですむ方が望ましいことにかんがみると右のような処分は是認できる。

(八)  以上説示したとおり、第一次処分を無効とする原告の主張は採用できない。

三  第二次処分について

1  第二次処分に至る経過

≪証拠省略≫を総合すると、つぎの事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(一)  第一次処分を政治活動に対する弾圧として、原告は、他の四名の被処分者とともに、全生徒に対して呼びかけ、全生徒の前で学校側と討論してこのことを明らかにし、処分を撤回させようと考え、原告らは、一〇月四日から連日登校し、同月一三日ころまで教師らの指導および制止を無視して中庭、図書館前等でハンドマイクを使用して生徒に対し、処分撤回、大衆団交要求、授業ボイコットを呼びかけて集会を開き、とくに同月一一日は授業時間に入ってもハンドマイクを使用することを止めなかった。同月六日には被告が他出していたのに原告ほか一〇数名が午後二時二〇分ころから校長室に坐り込み、午後五時二〇分ころ帰校した被告に対して被告および全生徒が出席し、原告らが司会をして討議するという形式の集会である大衆団交を要求し、また同月一一日午後一時三〇分ころから職員室前廊下で約四〇分にわたり校長と話し合った。

(二)  学校では、同月一三日、一五日、一七日、二二日、二五日と新妻、志賀両教頭、大平教諭らがこもごも原告宅を訪問し、原告に対する指導説得に当ったが、原告はいずれも不在であり、原告の親と原告に対する指導について話し合って帰らざるをえなかった。

(三)  同月三〇、三一日には磐城高校において学校行事として高月祭を開催し、とくに三一日は県教育長の承認をえて休業日を一一月二日と振りかえて授業日とした公開の日であり、弁論部の主催するフリートーキングが被告の許可を得て図書館南側で行なわれる予定となっていた。原告を含む被処分者およびこれを支持する生徒は、自分たちを全学園準備委員会と称していたが、処分反対闘争が漸次沈滞してきたので、公開の日に他校の同調者とともに、右フリートーキングの場で、自分たちが主導権を握って集会を開き、生徒の意識を高揚し、かつ、一般市民に対して第一次処分の不当性、磐城高校の受験体制教育等を知らせようと相談し、一週間ほど前からこのことを他校の同調者に連絡し、三一日午後零時五分ころ、覆面をした者を含むヘルメットを着用した原告以下約二〇数名が全いわき国際主義高校戦線ほか三団体と表示した四本の旗を先頭に校門から進入し、教師らの制止をきかず講堂前までデモをし、フリートーキング会場に坐り込み、「一〇・三一 三里塚処分粉砕、沖繩返還協定批准阻止、磐高ブルジョア教育解体、磐高全学闘(準)」「三里塚処分粉砕、沖繩返還協定批准阻止、全県高校生総決起集会」と表示した立看板をたて、原告らが演説を行なった。学校側は旗を取り上げようとし、そのうち一本を取り上げてその旗竿を折り、被告は退去命令を出し、数十回にわたって解散と退去とを命じた。また参加者の一部の保護者(被処分者の保護者は学校から呼び寄せられていた)は、参加者をつれ戻ろうとし、教師らもこれを援助したのでもみ合いとなったこともあった。原告らが進入してから約一時間後に高月祭実行委員長と生徒会長が、原告らとともに行動した当時の弁論部長である乙村乙男に対して弁論部の届け出た行事であるかと尋ねたので、同人がそうであると答えると、これを認めた。この集会は高月祭の終了した午後三時一五分後も約一時間続けられた。そのころ、スクラムの中に入って説得しようとした教師が学校の態度に対して原告らから激しく追求されたこともあった。この集会について生徒会執行部が約一週間後高月祭の行事の一として認める、集会およびデモが校内の秩序を乱したとは考えられないという見解を示した。

(四)  この間、学校側では被処分者の父兄に被処分者らの行動を逐一報告するとともに、力づくでも被処分者を登校させないように働きかけ、原告の父も親戚の者数名とともに原告を自宅に連れ戻ったこともあり、また原告の母は前記高月祭の際多数の人の前で必死になって原告をスクラムから連れ出そうと努めたりした。

(五)  一一月八日ころ、学校側では原告から処分についての事情聴取をすることなく、職員会議を開き、原告が家庭謹慎処分を受けているのに、学校および家庭の度々の指導説得を聞き入れず、しばしば校内に入り、中庭等における数次の不法集会に参加し、他の生徒に授業放棄をそそのかしたこと、一〇月三一日の高月祭に際し、家庭謹慎期間中であるのにヘルメット覆面姿で校内に乱入して不法集会を催し、数十回にわたる退去命令に応ぜず、そのうえジグザグデモを行なっていちじるしく学校の秩序を乱したことを理由として、無期停学処分を命ずることに決定し、一一月八日、志賀教頭らが原告宅を訪問して、翌九日午前九時まで原告とともに保護者が出頭するように伝えた。

(六)  同月九日、原告は午後四時ころに、原告の父は午後五時ころに、それぞれ出頭したが、処分を不満とする原告らは、処分の告知場所に予定していた校長室に赴かず、保護者らを宿直室に待たせ、午後六時五分ころから、職員室において被告に対し学校側、原告ら、保護者らの会談を開くよう要求したが、学校側はこれを拒否し、交渉は午後一二時ころまで続けられ、物別れとなった。保護者らは右交渉に午後一〇時ころから加ったが、学校側に対し、原告らによく話すので告知を一日のばしてほしいと申し出、学校側もこれを了承し、翌一〇日に延期した。同月一〇、一一日、原告は授業に出て授業担当の教師に処分理由の説明をしつように迫って授業をさせなかったり、集会の呼びかけなどしたが、告知を受けようとする様子はなく、原告の保護者も出頭しなかったので、被告は、同月一一日原告に対する第二次処分の内容と理由とを記載した懲戒書を郵送し、右書面はそのころ原告に到達した。

2  原告は第二次処分は違法であると主張するので、その主張する違法事由について順次検討する。

(一)  原告は無期停学処分は学校教育法第一一条、施行規則第一三条、学則第二九条に定めのない処分であると主張する。同条文には「停学」とのみ定められており、かつ無期停学が被処分者に大きな苦痛を与えるであろうことは原告の主張するとおりであるが、懲戒処分として退学も認められていること、懲戒もまた教育の手段としてなされるものであり、事の性質上有期停学はある程度の期間をこえることは相当ではなく、長期にわたらざるをえないような場合にはむしろ不定期の処分をし、事情に応じてその解除をはかるのが相当であり、弁論の全趣旨からそのような取扱いがなされていることが認められることにかんがみると、法が無期停学という処分を禁じていると解すべきものではない。

(二)  原告は単なる第一次処分の加重処分であると主張するけれども、第一次処分が適法であることは前説示のとおりであり、これに対して原告は自己の見解を固持し、前認定のような行動に出たものであり、被告の処分事由も第一次処分とは別個であることが明らかであるから、第二次処分は、第一次処分の単なる加重処分ではない。

(三)  原告は、一〇月三一日の高月祭における行動は正当であると主張する。しかしながら、原告らの行なった集会は、前認定の事実から明らかなように、原告らの意図においても、実際に行なわれた集会の態様においても、主催者は原告らであり、集会自体も全県高校生総決起集会というのであって、高月祭に予定された弁論部のフリートーキングとは全く別個の集会であり(生徒会役員の当日の態度および前示の見解はその判定の一資料とはなるが、その見解にのみ左右されるものではない)、これに対して、学校施設の最終的管理責任者である被告が退去を命じ、これに応じないため実力を用いて排除にあたったことは相当であってそれ自体非難されるべきものではない。かりに、実力の行使にあたって、行過ぎにわたる点があったとしても、それ自体問題となる余地があるにすぎず、そのことから実力行使の機縁を与えた原告らの行為が正当化されるものではない。

(四)  原告は第一次処分について述べたのと同様の理由により、第二次処分の手続の違法性を主張するが、虚偽の処分事由を告知していることおよび処分を告知していないことの主張のあたらないことは前認定のとおりである。処分にあたって原告の弁明をきく機会が作られなかったことは前認定のとおりであるが、処分事由とされた原告の行動はすべて学校側の面前で行なわれたものであり、原告の行動の動機および理由は原告が直接間接に被告に対して明らかにしているのであり、原告の人格については極めて多数の学生を収容している大学等とは異なり、級担任教師を通じて把握されているのであるから、このような事情のもとにおいては、必ずしも別個に弁明の機会を作る必要はないということができる。また原告に対する指導説得については、学校側でその機会を作っても原告の不在のため行なわれないこともあり、原告は大衆団交を要求して全く譲らず、教師と原告とがたまたま出会った場合のほか機会はなく、その際にはその場合に応じた指導説得がなされているのであり、原告の自己の信念についての強固な確信と学校側に対する強い反情と態度とにかんがみると、学校側の指導説得が不十分であったということはできない。

(五)  以上説示したとおり、第二次処分を違法とする原告の右主張は採用できない。

四  第四次処分について

1  第四次処分に至る経過

≪証拠省略≫を総合すると、つぎの事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(一)  第二次処分後原告らの呼びかけに対する生徒の反応が漸次衰え、原告らの処分反対行動はほとんど被処分者に限られるようになってきたので、原告はほとんど連日登校して教室に入り、授業担当の教師に対して抗議をし、教師からの退室するようにとの注意に応ぜず、教室に居坐るようになった。同月二〇日午後四時三〇分ころ新妻教頭らが原告宅を訪問したが原告は不在であり、このころは、原告はほとんど自宅へは帰らなかった。

(二)  第二次処分がなされたうえ、生徒の反応が衰えてきたことから、原告らは討議の結果、ハンストをもって、学校側に対し、被告の自己批判、大衆団交および処分白紙撤回の要求をし、一、二年の意識を盛り上げるため、当時二学年の乙村乙男がこれを行ない、原告らその他の者は学校側との交渉、生徒らに対する情報宣伝活動を担当することとなり、一一月二九日午前一一時五〇分ころと午後三時ころ、図書館前で前記三要求を大書した看板を立て、志賀教頭らの制止に応ぜず、原告がハンドマイクで生徒にハンストの宣言をして集会を呼びかけ、午後五時四五分ころ、テント二張りを設け、原告らは中に入った。学校側では午後六時四五分ころから、ハンストを中止するよう説得し、テントの撤去と原告らの退去を命じたが、応じないので、午後八時五〇分ころ実力でテントの撤去作業を行なったが、一時一張りを撤去できたにすぎなかった。原告はほとんど連日、ハンドマイクで下校する生徒に対し、右三要求を支持するよう呼びかけた。

(三)  学校側では右乙村の生命にかかわる問題であり、翌三〇日からは原告らが学校の薪を持ち出してたき火を始めるなど校舎の維持管理の点からも放置することができないので、連日職員会議を開いて対策を協議し、原告らの父兄を呼んでその意見をたずね、昼間は正常の授業を維持するとともに、夜間はほとんど全職員で原告らに対する指導説得にあたり、職員の下校は連日午後一一時ないし一一時三〇分ころとなり、宿直者は通常一名であるのを五名に増員した。このため全職員の疲労度が甚しく、健康状態が気づかわれるようになった。

(四)  原告らは前記三要求を固持し、被告に対し原告らとの交渉を求めたが、学校側は右三要求をいれることを拒否し、被告との交渉をも拒否し続けたため、一二月一日には、原告らは被告を探して校舎内を歩きまわり、午後一一時二〇分ころ帰宅しようとする被告を発見し、被告がやむなく校舎内に戻るや、これを探し求める原告らとこれを制止しようとする教師らとの間にもみ合いがあり、鈴木教諭が負傷した。

(五)  学校側では一一月三〇日から一二月二日まで校医に依頼して、乙村の診察をしようとしたが拒否され、一二月三日になり、乙村の方で同人のかかりつけの医師四名を招いて診察を受けた結果、同日ないし翌四日がハンスト続行の限度であるとの診断があり、同医師らの仲介で学校側との交渉に入ったが、同医師らの思違いから不調となり、ハンストは翌日までもち越された。翌四日原告らはハンストによる何らかの成果を得たいと考え、被告もこれに応じて話合いを始め、まず学校側三名、原告ら一五名(一時三〇名くらいとなる)との間で予備接衝を行なうことになり、原告らは要求項目を大衆団交のみにしぼり、大衆団交の名称にこだわらず、学校側の参加者を教師全員とし、司会は全学闘準備委員会と学校側との話合いできめ、即時開催を一週間内の開催に期間を伸長するとの譲歩をしたが、学校側がこれを拒否し、対案として被告と被処分者との話合いを提示して譲らなかったので、激高した原告らは校長室のドアを蹴破って入り一時間三〇分余にわたって被告に大衆団交を要求したが、職員らにより室外に排除された。午後四時五〇分ころ、乙村は生徒代表と学校側の話合いを継続することを求め、志賀教頭がこれに応じたので、両親とともに帰宅した。その時原告は見送ろうとした教師に対して「お前ら見送る資格があるか、引っ込め。」と叫び、乙村の車が図書館前を出る時、原告の指揮でそこにいた生徒はインターナショナルを歌った。そして他の二年生の中にハンストを宣言する者があったので、学校側は実力でテントを撤去し、これにしがみつく原告らを校門外に排除した。

(六)  同月六日ころ、学校側は原告から処分についての事情聴取をすることなく職員会議を開き、原告が第二次処分を受けたのに反省の色なく、学校の制止をきかないで連日のように登校し、さらに右ハンストを支援し、テントをはって校地を不法占拠し、連日の退去命令に応じないで抗議行動を続けたことを理由として退学処分を命ずることを決定し、一二月六日、大平教諭が、原告の母に電話で翌七日午前九時まで原告とともに保護者が出頭するよう伝えた。

(七)  同月七日には、原告の母は勤務のため、原告の父は祖母の危篤のこともあって出頭せず、原告も校門に現われ高野教諭に校長室に行くよう促されたがこれに応じなかったため、被告は、同日原告に対する第四次処分の内容と理由とを記載した懲戒書を郵送し、右書面はそのころ原告に到達した。

2  原告は第四次処分は違法であると主張するので、その主張する違法事由について順次検討する。

(一)  原告は第四次処分が単なる第一、二次処分の加重処分であると主張するけれども、第一、二次処分が適法であることは前説示および後に説示するとおりであり、これに対して原告は自己の見解を固持し、前認定のような行動に出たものであって、被告の処分事由も第一、二次処分とは別個であることは明らかであるから、第四次処分は、第一、二次処分の単なる加重処分ではない。

(二)  原告はハンストを支援したのは原告ばかりでなく多数の生徒がいるのに、原告だけが第四次処分を受けたのは差別処分であると主張するが、第四次処分の理由はハンスト支援だけではないことは前示のとおりであり、かつ、支援の程度、態様に軽重の差があるのであって、原告は終始先頭にたってこれを行なっているのであり、他の生徒で原告と同様の行動を行ない、情状にある者の存在を認めるに足りる証拠はないから、第四次処分をもって差別処分ということはできない。

(三)  原告は原告の前示行動が学則第二九条第二項第四号に該当しないと主張するが、前認定の事実のもとにおいては、原告の行動が右条項に該当することは明らかである。

(四)  原告は第二次処分について述べたのと同様の理由により第四次処分の手続の違法性を主張するが、前認定の事実のもとでは、三2(四)の説示と同様の理由により、右主張は失当であるということができる。

五  原告は、第一、二次処分および第四次処分は、全体的に考察した場合、被告の誤った第一次処分に誘発された原告の反対行動のみを取り上げて処分したものであって信義則に違背すると主張するが、その前提のあたらないことは前示のとおりであり、その反対行動も学校内の秩序を無視したものであって、被告の第二次および第四次処分が信義則に反するものとはいえない。

六  原告は、被告の本件各処分は被告の裁量権の逸脱であると主張するので考えてみる。

高等学校における生徒に対する懲戒処分は、生徒の教育について直接に権限をもち責任を負担する教師が学校教育の一環として行なうものであるから、懲戒処分に付するかどうか、また懲戒処分のうちどのような処分を選ぶべきかの判断は、学校内の事情に明かるい処分権者の裁量にまって初めて適切な結果が期待できるのであるが、懲戒処分は、反面において被処分者の教育を受ける権利を侵害するおそれがあるから、その裁量の範囲については、権利侵害性の程度に応じて広狭の差があり、かつ教育方法の一つであることから、処分権者と被処分者との教育者・被教育者としての関係の強弱、処分に至る手続における教育的配慮の程度を斟酌すべきである。

ところで前認定の諸事実のもとにおいては、少くとも原・被告間の信頼関係が喪失していることはうかがえるが、懲戒権の行使の基盤である処分権者と被処分者との信頼関係とは、個別的なそれではなく、処分権者と被処分者の地位に立つであろう生徒一般との関係であり、かつ、具体的被処分者の主観的な信頼ではなくて生徒一般の客観的な信頼である。そして本件にあらわれた全証拠によってもこのような信頼関係が喪失していると認めるに足りない。また処分手続においても、前示のとおり著しく教育的配慮を欠いたものということはできない。≪証拠省略≫によれば、昭和四五年度における全国の中学卒業生の高等学校への進学率は八二パーセントであることが認められ、その意味では高等学校教育が義務教育化しているということは首肯できるが、なお義務教育と異なる点も多々あるのであり、懲戒処分の面で義務教育と同一視しなければならないとはいい難く、右の傾向を考慮に入れても、本件各処分が被告の裁量権を逸脱したものとはいい難い。

七  終りに、原告は、磐城高校の教育体制はゆがめられたものであり、原告が早くからこのことを指摘し主張してきており、原告の本件欠席も右の点に対する告発であるのに、被告は自己の本質的誤謬をおおい、原告の些末な行動をとらえて行なった本件各処分は重大明白な瑕疵があると主張し、原告の挙示する証拠によれば磐城高校の教育体制には改善を要する点が存在することが認められるが、学校も社会的施設であって、そのおかれた社会的諸条件のもとに存在するものであり、かつ現に生徒を収容して教育を実施し、これを停止することは許されないのであるから、教育の衝にあたる者は常に学校教育の改善向上に眼を向け努力を重ねるとともに、現になされている教育の効果的実施のための環境の維持保全に意をつくさなければならないのであって、前認定の事実によれば、被告が自己の非をおおいかくし、その非を指摘した原告に対し報復的に本件各処分をしたとはとうてい認め難い。

八  以上の次第により、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 丹野達 裁判官新田誠志および同石井彦寿は転任のため署名押印することができない。裁判長裁判官 丹野達)

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